猫又坂
ねこまたざか
東京都文京区千石2丁目と3丁目の間にある緩やかな坂。長さは約170メートル。猫股坂・猫狸坂(ねこまたざか)とも。
標識
以下標識は
・坂学会 The Slope Society of Japan>全国坂の坂のプロフィール>猫又坂
からの引用です。ありがとうございます。
遠方地につきサイト管理人(nekohon)自身は現地調査できておりません。すみません。
坂下に文京区が設置した標識
猫又坂 ねこまたざか (猫貍坂,猫股坂)
千石2丁目と3丁目の間
不忍通りが千川谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在の通りは大正11年(1922)頃開通したが,昔の坂は,東側の崖のふちを通り,千川にかかる猫又橋につながっていた。この今はない猫又橋にちなむ坂名である。
また,『続江戸砂子』には次のような話がのっている。
むかし,この辺に狸がいて,夜な夜な赤手拭をかぶって踊るという話があった。ある時,若い僧が,食事に招かれての帰り,夕暮れどき,すすきの茂る中を,白い獣が追ってくるので,すわっ,狸かと,あわてて逃げて 千川にはまった。そこから,狸橋,猫貍橋,猫又橋と呼ばれるようになった。猫貍とは妖怪の一種である。
文京区教育委員会 平成11年3月
「猫又橋」についての説明板
猫又橋 親柱の袖石(そでいし)
この坂下に もと千川(小石川とも)が流れていた。むかし,木の根っ子の股で橋をかけたので,根子股(ねこまた)橋と呼ばれた。
江戸の古い橋で,伝説的に有名であった。このあたりに,狸がいて,夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊るという話があった。ある夕暮れとき,大塚辺の道心者(どうしんもの)(少年僧)がこの橋の近くに来ると,草の茂みの中を白い獣が追ってくるので,すわ狸かと あわてて逃げて千川にはまった。それから,この橋は,猫貍橋・(猫又橋)といわれるようになった。猫貍は妖怪の一種である。
昭和のはじめまでは,この川でどじょうを取り,ホタルを追って 稲田(千川たんぼ)に落ちたなど古老がのどかな田園風景を語っている。
大正7年3月,この橋は立派な石を用いたコンクリート造となった。ところが千川はたびたび増水して大きな水害をおこした。それで昭和9年千川は暗渠になり道路の下を通るようになった。
石造りの猫又橋は撤去されたが,地元の故市川虎之助氏(改修工事相談役)は その親柱と袖石を東京市と交渉して自宅に移した。
ここにあるのは,袖石の内2基で,千川名残りの猫又橋を伝える記念すべきものである。なお,袖石に刻まれた歌は 故市川虎之助氏の作で,同氏が刻んだものである。
騒がしき蛙(かわず)は土に埋もれぬ
人にしあれば 如何に恨まん
文京区教育委員会 昭和58年1月
引用させていただいた↓ページ↓に碑の写真もあります。ほかにもすばらしいデータがそろっていて、よくぞここまで集めたと感心するばかり。超おすすめサイトです、どうぞご訪問ください。
http://sakagakkai.org/profile/bunkyo/nekomatazaka.html
ねこまた(猫又、猫股)とは
猫が年老いて尾が二つにわかれ、よく化けるといわれるもの(『広辞苑』岩波書店)。
古くは藤原定家の日記『明月記』に登場するほど(天福元年=1233年)、日本に昔から言い伝えられてきた化け物です。猫の並外れた身体能力や、暗闇でも行動できる能力、さらに目が光ることなどからの連想でしょう。どの猫でも10年を超えて生きると猫又になる可能性があり、猫とキツネの間に生まれた猫は3年でその能力を得る、なんてこともいわれていました。
詳細はこちらのページ↓をご覧ください。
『南総里見八犬伝』
曲亭馬琴『南総里見八犬伝』に、「簸川(ひかわ)の猫俣橋」という地名が見えます。
『南総里見八犬伝』は28年もの長期にわたって連載された、全9輯98巻106冊の大長編にして、江戸時代を代表する怪奇小説です。当時の最大のベストセラーだっただけでなく、現在にいたるまで繰り返し、小説化され、映像化され、コミック化され、ゲーム化され、なおかつ人気が衰えず、今年(2024年)また新映画が公開されたという大傑作です。
その最初の方に、ちらっと1回だけ、「猫股橋」なる地名が出てきます。第二輯巻之四第十八回。八犬士の前半の主人公、信乃(しの)の愛犬・与四郎(よしろう)が、信之親子の宿敵ともいえる姉夫婦の愛猫・紀二郎(きじろう)に襲い掛かって殺してしまった場面です。
「いかなれば彼廃人(かのかたはもの)、かくまでわれを侮れる。彼奴が姉がわが妻なり。われは嫡家を続ぐのみならず、便(すなはち)是(これ)村長(むらおさ)なり。彼奴が無礼をいへばさらない。そが養犬(かひいぬ)まで主に倣ふて、わが愛猫(まなねこ)を殺害し、飽(あく)までわれを辱しむ。もし眼前(まのあたり)に犬を殺して、紀二(きじ)が怨みを雪(きよ)めずは、この熱腸を冷がたし。汝等二人は糠助もろとも、番作が宿所に赴き、彼畜生を牽(ひき)ず来れ。その口状は箇様箇様(こようこよう)。」と、巨細(つまびらか)に説示(ときしめ)せば、先に来りし両個の小厮(こもの)は、こころ得果て、遽(あわただ)しく、糠助を誘引(いざなひ)つつ、番作許(がり)赴けば、蟇六は額蔵に、猫の亡骸をかき抱せ、なほ 諄諄(くどくど)と途(みち(すがら、罵止(ののしりやま)で還りけり。今このわたりに掛かれる橋を、簸川(ひかは)の猫俣橋といふとぞ。紀二が故事に因なるべし。
『南総里見八犬伝』では、この橋を猫俣橋と呼ぶようになったのは上記紀二郎の故事にならってだろうなんて書いてありますが、『八犬伝』は馬琴によるフィクションですから、そうではないでしょう。とはいえ、おもしろい話です。
地名に「ねこ」が付く場合は、猫ではなく「根っこ」が由来となる場合が多いです。猫股橋のように、股になった木の根っこから作った橋=ねこまた橋=猫股橋のほか、よく見るのが「ねこや」のたぐい。これは山の根っこ(ふもと)にある小屋=ねこや=猫屋、となったそうです。